日々考え、どこかの誰かに聞いて欲しいと思った事など。

3月某日 雪

これまでの作品がオルゴールだとすると、ピアノに相当するようなものをいつか作りたいのだと思う。今日はNHKで坂本龍一と福岡伸一先生の対談を見た。「壊すことではじめて作り直す余地が生まれる」というような話が頭に残った。

二月某日 夜
アマゾンプライムのビデオを観て、換気に窓を開けたら真っ暗な中で電線が風に揺れていた。それを見ながら思ったのが、いろんなものが欲しくなって買ったり、作ったりをほぼ絶え間なく続けているけど、いったい自分が所有しているものは自分の体くらい、いや、この体だって自分のものだとはどうも言えなさそうだということだった。一瞬いろんなことがごちゃごちゃになったけど、でも、とりあえずはいまここに居るのは僕だ、と思った。

一月某日 雨
人間は地球の細胞、ということを思いついた。人間だけじゃない他のいきものも、ストーブとかの人工物だって同じく。
「ぼく」と「地球」じゃなくて「ぼくは地球」だということ。


12月某日 晴れ
一年が終わりに近づき、自分が本当にしたいこと、望んでいる事をもう一度考えてみた。
自分にとっての長期的な人生の目標は「本当にずっと楽しめるモノを作る」ことだと改めて思う。ある程度遊んだら飽きて来るものではない、心が移ろって価値観やマイブームが変わってもむようになるものではない、そういうモノを作りたい。飽きてしまう過程の自分の心を観察し、どういう仕掛けがあれば飽きないものになるだろうといつも考えている。これは三週間後の自分も楽しんでいるものだろうか、半年後の自分は?3年後の自分は?10年後の自分は?おじいさんになった自分は?そんな風に考えている。
でもそれは本当に難しい事だと感じる。これまで何度「これぞ!」っていうものと出会い、そしてその気持ちが冷めてしまった事か。その度ごとに新しい何かを探し、何かを買ったり作ったり、そしてそのどれもが次の「新しいモノ(新しく見つけたアンティークなんかも含む)」に取って代わられていった。いつまでこれを続けるのだろうという思いが心の底にたまっている。個人の好みは信じられないくらいに変わる。10年前の僕は確かB'zを爆音で聴いていた。最近は青葉市子のささやくような歌声に耳を澄ましている。趣味のもので10年前から部屋にあるものはあるだろうか?
「心の移ろいは節理だ」「完璧なものなんて存在しないし、それでいい」「飽きていくことがあるから新しいものに出会う喜びがあるんじゃないか?」とも最近は思えるようになってきた。でも本心を言えば、僕を、誰かを、何時までも飽きさせずにいてくれるものをいつかは何か一つ作りたい。

12月某日 雪
生まれたものは必ず老いて死ぬことが決まっている。それは解決しようとするような問題ではなく受け入れるしかない事実だ(と思う)。
あらゆる製品と作品も、作られたからにはいつか飽きられて捨てる時が来る事が決まっている。飽きられることのない永遠の作品を作る事は、不老不死を本気に求めるのに似ている。受け入れるしかない。
人口過剰と大量生産の問題は似ている気がする。「多い」事が問題になっている。適切な人口や適切な物を作る量は判らないけど、現状人間が増えすぎていて、モノが作られ過ぎていると思うのだったら、意識としては作品を作る事を、少しためらい、自分の事ではなく全体のバランスを気にかけている方がいい。
僕も日本に生まれたからには、日常的に物を買いすぎ、エネルギーを使い過ぎていると思ったほうがいい。作品を多く作り多く売る事は、より多くエネルギーを消費し、将来のごみを作り出している事を意味する。(どれだけ大切にされるものを作れたとしても、行きつく先は決まっている)自分がどれだけの量の物を作って売ったかは、「売り上げの数字」として表れる。だとしたら、少なめの売り上げを目指し、その中で心豊かに生活できるように生活を工夫する、という考え方も十分にあり得ると思う。